「毛布にウラもオモテもあるワケないわ」「ラベルのついている方がウラに決まっているさ」と思っている方、どちらも間違いですぞ。
実はラベルのついている方がオモテ。
そしてオモテを肌側にして眠るのがスタンダードな毛布の使い方なのです。
1337年、エドワード三世の時イングランドのトーマス・ブランケットなる人物が、ブリストンに織物工場を設立。寝具用の毛布を初めて生産したことから、羊毛織物一般をブランケットというようになったという一説がある。
一方では、フランスのボーヴェなる地で産出される白い毛織物をブランシェ(白いという意)と呼んでいたことから転じて、英語読みでブランケットと呼ぶようになったとか。
エレキテルで注目を浴びた平賀源内は、うなぎ屋に頼まれた丑の日の引き札(広告チラシ)でも一世を風靡。次々と多方面へ手を伸ばした。
そのひとつに、毛織物製造がある。高松の近くの志度でメンヨウを飼育して国倫織(くにともおり)をつくったそうである。もちろん、わが国初。
残念ながら試織りでおわったけれど、源内先生のその才気と闘志、ごりっぱ!
安土桃山時代、ポルトガルやイスパニアからの到来物の中に羊毛の織物・羅紗があった。
新しもんがりの太閤秀吉は、大坂城の寝室にベッドを置かせて、猩々緋(しょうじょうひ)というまっ赤な毛織物をかけていたとか。掛、敷どちらかは不明だが、えらいハイカラな殿さんだったようで…。
オッペケペー節
明治中期、当時の風俗を歌って人気を博した川上音次郎、人力車と車夫とその娘の姿をきっちり風刺して、オッペケペー節に唄っている。
娘のころぶをならふて とっさんころんじゃいけないよ 帰り車は かけひきだ
ほんとにかへしちゃたまらない オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー♪
というわけでこの当時、毛布は人力車欠かせぬものだったようだ。」
明治初期、「赤ゲット」なる言葉があった。
団体で都会見物にやってきたおのぼりさんたちは、仲間からはぐれないように赤い毛布を半分に折り、紐を通して外套のようにすっぽりかぶっていたらしい。
人力車の膝掛けにしか使われない赤い毛布をかぶる彼らを都会人は野暮の代名詞として「赤ゲット」とよんだとか。
織機の横糸をおくる杼(ひ)なる道具を、昔からシャトルといってる。
つまり、行っては還るこの動作の繰り返しを「シャトル」というわけ。
そこであの、地球と宇宙を往復するロケットにぴったりというわけで、つけられた名がスペース・シャトル。
ご存知でしたかな。
小宇宙と大宇宙ではありますが、同じ名前とはおもしろいではありませんか。
かつては、北海道や東北の北国で需要の高かった毛布だが、いつの頃からか、四国がトップになった。1日中、暖房しっぱなしの北国より、夏向き家屋の南国の方が、寒風が身にしみるのだろうか。
世界をみても、ロシアなどより中近東やアフリカ諸国の方が毛布使用率が高い。
これは、昼夜の寒暖の差が激しいからであろう、といわれている。
毛布が最大の贅沢品であった明治40年頃。某デパートで売り出された毛布についた値段が4円から15円。
当時、百円もあれば、百坪の土地に30~40坪の家が買えた頃のことである。4円の毛布なら25枚、15円なら、5~6枚で豪邸が建ったのである。
今では考えられない毛布の値打ちだ。
明治40年頃といえば、夏目漱石の「吾輩は猫である」にも赤ゲットが登場する。
当時の書生さんは、故郷を出るとき、赤ゲットを1枚買って上京したのである。寒い夜、毛布を頭からすっぽりかぶり、足をちぢめ、からだ全体をくるんで寝た。
つまり、故郷を発つときの必需品だった。
国を出るとき三円二十銭で買った赤毛布(あかげっと)を頭から被ってね、
ふっとランプを消すと君 真暗闇になって今度は草履の所在地(ありか)が判然としなくなった」
(中略)
漸くの事草履を見つけて、表へ出ると星月夜に柿落葉、赤毛布にヴァイオリン。
右へ右へと爪先上り庚申山(こうしんやま)へ差しかかってくると、
東嶺寺(とうれいじ)の鐘がボーンと毛布を通して、耳を通して、頭の中へ響き渡った。
「吾輩は猫である」より