明治
牛毛服地から牛毛布へ。
六文銭マークの「真盛社」誕生。
当時、「赤ゲット」とよばれた輸入毛布は、真紅で、肌ざわりも柔らかく、そのあたたかさは庶民の憧れのまと。
しかし、その値段は高嶺の花でした。
幸村の志をうけて、その社章は六文銭を配していました。
最初は、大阪から不用の牛の毛をもらいうけて服地を織りましたが、ゴワゴワした着心地と、なんともたまらない臭いによって、売れ行きはサッパリ。みごと失敗に終わります。
そこで、「服地がダメなら寝具に」という、ここでも幸村流精神を発揮し、牛毛布第一号が誕生します。
しかし、その目標であった赤ゲットには及びもつかないもので、その縞模様から「ダンダラ毛布」とよばれました。
ドイツの染料を使ったとあって、朱色は今も鮮やかだ。
牛毛布との悪戦苦闘から生まれた、新しい工夫、新しい技術。
赤ゲットに及びもつかないダンダラ毛布を、なんとか柔らかな肌ざわりにしようと、チャレンジしたのがわれらの先達です。
まず、牛毛に石灰を混ぜて臼でつき、それを川で晒して、石灰分を流して、乾燥させるまでが、前工程。次に始まるのが、やっと、紡績工程で、この牛毛を「ペンペン」という弓のような道具で弾いて、柔らかな繊維だけを選び出し、糸にひきます。こうしてできたのが、手紡糸で「つぎのぎ」「つぎぬき」と呼ばれました。
牛毛布が織り始められた頃は、起毛も幼稚で、チーゼルという薊の実を乾燥させたものを使って、手がきで行いました。手にするだけでトゲトゲしいチーゼルと格闘しながら、まんべんなく起毛する技術が生まれ、それが、回転式人力起毛機を生み、次いで動力式起毛機へと発展していったのです。
現在は、鉄の針を使って起毛する。
このように、前工程から、仕上げの起毛工程まで、さまざまな工夫を生みだしたのも、牛毛という、一筋縄ではいかない素材をあきらめず、前進をつづけたからではないでしょうか。
日清・日露の戦争が、綿毛布の輸出ブームを呼ぶ。
どんなに新工夫を加えても、牛毛布は牛毛布。赤ゲットのようにはいきません。せいぜい、人力車の膝かけ、軍御用達の鞍下毛布などに使われるだけでした。
日露戦争が始まり、終わると、また市場はひとまわり大きくなっていました。
そして、第一次世界大戦が始まり、終わると、これまで世界の毛布市場を席巻していた欧州の毛布産業が疲弊し、これに変わって泉州の毛布が敷き詰められていました。
このように、泉州毛布は国内よりも、まず世界を相手にその名声が認められたのでした。
柄見本であったため2つに切断されている。デザインは意外(?)と現代的。
赤ゲット以来の伝統毛布は寝具というよりも衣料。
赤ゲット、つまり、赤いブランケットという言葉が、昭和の初めごろまで使われていました。
広辞苑にも「都会見物の田舎者。おのぼりさん。不慣れな洋行者」と載っています。
確かなことは分かりませんが、かつて、地方から都会へでかけたお上りさんは、目印のために派手な色の毛布を羽織り、このため、赤ゲットなる言葉が生まれたのだろうといわれています。
このように、明治の頃から、少なくとも大正までは、毛布は、ブランケットと洒落た名で呼ばれていたことが分かります。
寒冷地で今も残る角巻き、あるいは、川端康成の名作「雪国」の駒子も、そういえば、赤い毛布をかぶっていたようです。
現在、日本の毛布は、世界でも珍しい現象として、花柄に人気がありますが、これも毛布が寝具としてよりも、衣料として使われた歴史の余韻かもしれません。
大正
綿から羊毛へ。そして分業体制。時代も味方した泉州毛布。
綿毛布のピークは、大正に入るとやってきます。見本もなく、柄見本を郵送すると、千枚単位で注文が電報で舞い込むという異常な時代です。
ちなみに、大正六年の綿毛布は、前年の十倍、明治後半期の四百倍の155万枚を越える驚異的な生産量をマークします。
しかし、この異常な輸出ブームもピークを過ぎると落ち着きを見せはじめ、それと入れ替わるように、国内需要が息づきはじめます。欧州の毛布産業の疲弊は、当然、わが国での輸入毛布、つまり、あこがれの赤ゲットが品薄になることを意味します。
赤ゲットに始まった日本の毛布づくりは、牛毛布を経て、綿毛布を開発し、ついに、羊毛毛布へと、たどりついたのでした。
泉州毛布の全国シェアが、七五%を越えたこの頃、生産方式にも、大きな転換が始まっていました。毛布の複雑な工程をひとつひとつ分けて行う「社会的分業体制」です。
紡績は紡績、織りは織り、起毛は起毛のそれぞれの専門業者が分担することで、能率化が進み、競争力をつけていったのです。
始業・終業を知らせていた鈴
昭和初期まで使われていた。
泉州毛布の始まり ~昭和・現在~ へと続きます。